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富士信用金庫の成り立ち
富士信用金庫(当金庫)の源流は戦前までさかのぼります。昭和12年7月、日中戦争が勃発し、政府は戦争を遂行するため、ヒト・モノ・カネの統制を強化、同年9月には臨時資金調整法および輸出入品等臨時措置法が公布され、日本経済は軍需一色となりました。翌13年4月には国家総動員法が公布され、経済はもとより国民生活はあらゆる面で完全に統制下におかれ、国民は大きな犠牲を強いられることになりました。
こうしたなか、富士信用金庫(当金庫)の源流の一つとなる保証責任吉原町信用販売購買利用組合が13年8月、地元中小商工業者の資金需要を満たす協同組織金融機関として設立されました。
太平洋戦争に突入した17年5月、企業整備令の公布により、金融界にも合併の嵐が吹き荒れました。銀行は一県一行主義のもとに大合同を迫られ、短期間に合同が進み、集約されていきました。吉原町信用販売購買利用組合も例外ではなく、19年3月、県令により解散を命ぜられ、同年4月の吉原町農業会の設立と同時に解散しました。そして終戦後の23年1月、ハイパーインフレが猛威を振るい、地元製紙業者が困窮にあえぐなか、有限責任吉原町信用利用組合が認可を受けて再発足しました。
翌24年3月には超均衡予算、いわゆるドッジ・ラインが実施されました。しかし、ドッジ・ラインにより不況は一層深刻化し、中小企業の倒産が問題化しました。同年7月、中小企業の保護育成、および中小企業金融の円滑化を図ることを目的に中小企業等協同組合法が施行されました。これを受けて翌25年2月、有限責任吉原町信用利用組合は吉原市信用組合に改組し、地域内における一般金融機関として、積極的に事業を展開していくこととなりました。
当金庫のもう一つの源流である富士信用組合が富士市水戸島に設立されたのは昭和26年9月のことです。朝鮮戦争特需を追い風に日本経済が復興を成し遂げ、高度成長へと歩みを進めるこの時期に、当金庫は二つの軸足を得、「地元を育て、地元に育つ」をモットーに、吉原・富士の両地域で事業を拡張していきました。
昭和20年代後半は、日本にとっても、そして当金庫にとってもエポックを画する時期となりました。26年9月、対日講和条約・日米安全保障条約が調印され、日本は自由主義国の一員として独立を回復しました。一方、この年は信用金庫法が公布された年でもありました。同法に基づき6月には561の信用金庫が誕生、地域経済に密着した中小企業を専門に扱う金融機関が整備されていきました。
この信用金庫法に基づき、27年2月に吉原市信用組合が吉原信用金庫に、翌28年4月には富士信用組合が富士信用金庫に改組し、それぞれ大蔵省の認可を受けた金融機関として新たなスタートを切りました。
(「吉原信用金庫 十周年誌」より)
昭和30年代、日本経済はめざましい発展を遂げました。重化学工業から始まった「投資が投資を呼ぶ」という状況は、その後に自動車・家電などあらゆる産業に及びました。まさに、民間企業における設備投資ブームが高度成長をリードした時代でした。こうしたなか、35年に「所得倍増計画」が打ち出されました。以後、日本経済は、ほぼ右肩上がりに成長していきました。
この間、吉原・富士の両信用金庫は、地域中小企業の旺盛な資金需要に応え、積極的な金融支援を行うとともに、次々と支店を開設していきました。また、公共機関の代理業務を取扱いはじめ、日本銀行との取引開始など、新規業務を積極的に展開し、業容の拡大に努めました。
昭和41年11月、富士市・吉原市の2市と鷹岡町が合併し、富士市が誕生しました。ちょうどこの頃は金融機関相互の競争が激化しており、同一市内に富士と吉原の2信用金庫が存在するデメリットが顕在化していました。
45年12月、両信用金庫は合併に調印し、翌46年4月、新生「富士信用金庫」(当金庫)が誕生しました。この合併によって当金庫は、経営の合理化、業務の効率化、営業区域の拡充など経営基盤をより強固のものとし、地域社会の金融機関としての使命を果たしうる体制の基礎を固めました。
(富士信用金庫50年史より抜粋)
※ 吉原信用金庫と合併前の富士信用金庫を「富士信用金庫」、合併後の富士信用金庫を「富士信用金庫(当金庫)」または「当金庫」と表記してあります。